SEL55F18Zの写真と教えることについてあれこれ思うこと

 おはようございます。午前8時です。

 今日はお散歩スナップワークショップの第1回です。前回はテスト開催という形だったので0回扱いですな。
今回、実に20名もの方に申し込んでいただいております。定員いっぱいなんすよ。



 普段から動画だなんだと写真の楽しさを伝えるエバンジェリスト的な役割を勝手に担わせてもらっておりますが、今日やるようなワークショップも含め、また有償無償問わず、私の仕事は皆をショートカットさせてどんどん上手くすることだと思っています。

 写真の技術は楽しんで覚えたものだし、なぜか勝手に身に備わっていた言語化スキルが使えるので、別に惜しむ気持ちはありません。

 これはもう、そのへんで写真を撮っている時に話しかけてくる酔っぱらいのおっさんとかに対しても一緒。こないだは友達にニコンのレンズをもらったんだけど、どうかなあ俺もやった方が良いかなあ、っていうおじさんがいたので、「やらなきゃ損だよ」ってそそのかしておきました。



 また、対面で教える場においては、かなりの人が的確なアドバイスで「えっ」ていうくらい写真が違ってくるのを見て嬉しいと同時にケツを叩かれているような気がして、そういう風に自分が常にチャレンジャーでいられるようにするのが楽しいんです。

 つまり自分が教えて上手くなっちゃうと、その分自分がより上手くならないと追い越されちゃうでしょ。それが恐いからまた頑張れますよね。

 ディフェンディングするものなんて別にないですが、先行している(と自分で思っている)人間って、そういう恐怖を覚えやすいんです。これは防衛本能が強すぎると教えなくなったり潰しにかかったりするし、なさすぎると本当に追い抜かれちゃいますね。

 また自分が頑張らないで済むように、楽なように、ってなるとドロドロに停滞しちゃうんですよ。それはもう営業写真の世界で沢山見てきたので、完全に反面教師ですね。自分にとっての新しい領域=新しい技術と新しい感性はセットだと思うので、ジャンル的にもオールマイティーにどんどんやってもらいます。



 あと、教える側として恐いのは、添削なんかの際に「自分が写真から読み取る能力がどれくらいあるのか」が常に試されるということ。これもなんでか訓練した覚えはないのに身に備わっていたものなんですけど、基本的には膨大な量を『真面目に』撮っていれば、かなりの人が身につけられるものなんではないかなと思うんです。

 つまり、自分がなにかの考えをもとに写真を組み立てて、また見た人にどう伝わるのか考えながら撮っていれば、同じような事を他人がやった結果である写真からリバースエンジニアリング的に類推するのも上手くなって当然なんですよ。

 そのあたり攻守の関係にも似ているので、見る人間の気持ちに配慮しないで撮り散らかしていると、見て読み取って、その人が何を思って撮り、その人の技術、技能がどれくらいのものであるのか想像する能力は発達しません。



 プラスして、教える側としては写真を見て、ああこの人には何が足りないんだな、と同時に「何が余っているか」も察知しないと、するべきアドバイスの種類、タイミング、量が分からんですわ。

 もちろん添削する場合は、読み取ったもの、投げるべきアドバイスを的確に再度言語化する必要があって、そこもまた試されて面白いんですよね。単なる技術情報だけじゃ人は納得してくれませんから。単に「ここがダメ」だけではアドバイスとして成立しません。受け入れられる、受け入れてもらえるような形にできて初めてのこと。

 これアドバイスが的確だと、1週間とかで違ってくるから面白いんですよ。Twitterなんかは生徒さんがすぐに写真をアップしてくれたりするので、反応が早くて面白いです。信頼関係も大事ですからね。こっちが絶対にぶれませんよ、というのを普段からずーっと見せている必要があります。

 教えるなんつうとおこがましいけど、教育っていうより「困っているならなんとかしてやらんと」がベースだし、せっかく写真をやるなら「撮れる自分」になった喜びを感じて欲しいなあ、というのはこれからも変わりません。

 また私は私でどんどん困難な状況にチャレンジして新たな知見を積み重ねていかないとカッコ悪いので、とりあえず体力の続く限り、脳がドーパミンをドバドバ出し続ける限りやってみようかなと。そういう気持ちでいます。



 何より、教えることがエンターテイメントになるんじゃないか? という社会実験の面もある動画およびリアル活動に付き合って下さっている皆さんのご支援のおかげで、なんでか私の状況がちょっとずつ良くなっちゃっているという現象に感謝! なんででしょうね面白いですね。

 今年はさらに領域が広がるし、書く方ももっとやりたいんですよね。
 というわけでまた!